99年夏・中国東北部訪問記 その3・瀋陽

−「中国帰国生」の故郷で考えたこと− 上神谷高校教員 松川 貴彦

今夏、図們・ハルビン・長春・瀋陽を回られた松川先生の訪問記を3回連載で掲載します。中国東北部の事情がよくわかる訪問記です。今号は最終回です。

1. 普通列車で長春へ

翌24日11時過ぎ、私は普通列車に乗りこんだ。さて普通列車の様子であるが、やっぱり人が多い。なんと言っても料金が安いからだ。 ハルビン−長春(約250Km=大阪−広島程度)で20元(約300円)である。車両はいっぱいであるが、私はその雰囲気を楽しんでいた。

昼過、私は持ち込んだパンをかじっていた。その時のことである。私の前にはおじさんが、そして隣には若者のグループが座っていた。彼らは、ちょっとした知り合いのようである。時々タバコや食べ物を進めあっている。若者はトランプ(これはかなりハデで、何回もお札が飛び交っていた。)をした後で、ビールを飲み出した。先に紹介したように、ハルビンビールはジュースのように飲まれている。あては、ハム・ソーセージそして生のきゅうり・ピーマン、さらにこれは少し驚いたが「まきずし」である。このまきずしを若者の一人が、おじさんに勧めた。おじさんもまきずしは初めてのようである。ありがたそうに受け取って、興味津々に口に運んだ。その瞬間、おじさんの顔が歪んだ。本当に歪んだ。「何だー。この腐ったような?(酢であろう)食べ物は。こんなもん…」と言いながら、口に入れたものを、新聞紙に戻した。そしてしばらく迷っていたが、そのうちに窓からほってしまった。「ああー。もったいない。」と思ったが、それで終わりである。でも、礼儀はわきまえている。そのおじさんは、気分を入れ替え笑顔を取り戻し、そして若者たちに言った。「おいしかったよ。ありがとう。」(この言葉も私の推測である。)一件落着である。列車は夕方、長春駅に着いた。

2. 「忘れるな918を」

翌日、私は「偽皇宮陳列館」(日本がでっち上げた、にせ満州国の皇帝・溥儀が住んでいたところ)に向った。さすがに建物は立派であり、当時の面影を残していた。入り口を入ると、真っ正面に大きな文字で「勿忘9・18」とあった。 ハルビンの731資料館と違って中の展示も充実している。印象的だったのは3つ。

一つは、731部隊についての展示も、ここの方がしっかりしていたということ。写真と説明が主であるが分かりやすかった。

二つは、戦時中の日本国総理大臣・東条英機が「戦争悪魔」とされてクローズアップさてていること。そしてその横に、天皇陛下の写真が何枚も(あまり説明されずに)並んでいること。

三つは、日本軍が残した毒ガス爆弾180万発が未だに中国の大地に残されていること。この除去には莫大な労力とお金がかかる。

「戦後処理はもう終わった」と思っている人たちが日本では多い。だが、それと中国の現実、そして中国人の意識とはかなりギャップがある。どうすればいいのだろうか?難問である。

翌日午前中、「中国帰国者センター」に向った。一枚の名刺だけが頼りである。バスを降りて、何人かの中国人にその場所を訊ねた。忙しそうにしている人たちであったが、親切に案内してくれて30分ほどで場所が分かった。「連絡もせずに、いきなりドアをノックするのも失礼なことだし…」と迷ったが、思い切って入ってみた。中には日本人教師のKさんがいた。突然の訪問者に驚いた様子であったが、2時間近く親切にいろいろ教えていただいた。私自身は日本の「中国帰国者センター」をも訪問したこともないので、ここで聞かしていただいた話も初めてのことばかりである。その内のひとつだけ紹介しておくと、瀋陽のセンターに続いて、長春のこのセンターも、来年の3月で閉鎖になるということである。「『残留孤児』で日本帰国を希望したものは、大体が帰国しており、センターはその役目を終えた」という理由である。中国で帰国センター閉鎖されると、「未だに残っている『残留孤児およびその家族』はどうなるのであろうか?」という疑問が湧いてくる。この事が私の大先輩である瀋陽の石井先生と関係してくる。

3.満州引き上げ体験をもつ石井先生

長春から瀋陽へは高速バスで約3時間。夕方には、遼寧大学教員用宿舎の石井先生(以下、先生)宅に着いた。その日から帰国するまで5日間、あつかましい私は、先生の部屋でお世話になった。先生は、私が新任で勤めた高校の教頭であり、それ以来いろいろとお世話になってきた大先輩である。4年前に府立旭高校を退職し、2年前から遼寧大学日本語クラスを教えるため、単身で瀋陽に来ている。そし遼寧大学の授業の合間を縫って、この1年間あるボランティアの準備を進めてきた。「日本語教材センター」という会である。これは先にふれた中国「帰国者センター」の閉鎖後、帰国を願っている残留孤児およびその家族の日本語学習の応援のための組織である。先生を中心にして1年間の準備で、必要な経費と事務所を確保することができたようである。

石井先生がそういう活動をはじめたのは、自らの生い立ちとも関連する。「少年時代、満州で敗戦を迎えてね。それまで、中国人をよくいじめてたよ。『日本人はえらい』と教えられていたんだから。でも敗戦後、いろいろ中国人の世話にもなった。いつかなんらかの形で恩返しはしないとね。」という言葉を、今から10年以上も前に聞いたことがある。何故か印象的だったので、これは覚えていた。その時、「どんなことを考えているんですか?」と私は聞きたかったが、少し失礼だと思ってたずねるのをやめた。そして時が流れて2年程前、ある集まりの席で「この8月から瀋陽の学校に行くことになりました。」と、先生が発言された。「そういうことを考えてこられたんだなー」と少し感動した私は、すぐに「先生、落ち着いたら、一度私もその学校に呼んで下さい。」とお願いした。

そんなことがあって、この夏休み石井先生を訊ねたのである。先生が一時帰国をしていたので、関空で待ち合わせ飛行機に乗って一緒に瀋陽に来たのである。

4. ある会社の日本人社長が悩んでいること

翌日、石井先生と私は、朝鮮族第一中学校(日本の高校も含む)を訪問した。先生はこの学校をよく訊ねるらしい。少し説明が粗くなるが、朝鮮族の学校は、外国語として日本語を教えている。もちろん希望すれば英語を選ぶこともできる。そしてここ第一中学校も日本語に力を入れている。が、日本人教員がいない。それで、先生が来ることは日本語の勉強になる、というふうに歓迎されている。まだ夏休みだったが、職員室には先生が全員熱心に教材研究をしていた。先生の一人が、少し手を休めて私たちと話をした。私のいくつか質問にていねいに答えてくれたが、一番印象的だったのは学校間での競争が激しいことだった。例えば生徒を沢山集めるために、本来休みである土曜日でも、多くの学校が授業をしているとのこと。そんなきびしい話にうなずきながら、「日本に来たら私の高校にも寄って下さい」と上神谷高校のことを紹介して学校を後にした。

昼からは、石井先生らが準備している「日本語教材センター」を訪れた。建物3Fの少し広めの部屋である。今のところ2・3の大き目の本箱に、雑多な本が数百冊程度。とにかく本をそろえることが急務であるようだ。どんな本が必要とされており、どんな本が許されないのか。そのあたりが結構難しそうである。検閲の問題、維持運営の問題などが大変である。私も少しはお手伝いができそうである。

そんなことの相談もあってか、石井先生は、次に瀋陽日本人会の会長を訊ねた。会長は瀋陽東芝電気の社長である。私たちは会社を少し案内していただいて、その後約1時間いろいろと話をすることができた。日本語弁論大会・日本語教材センターなどのお礼を石井先生がした後で、社長が会社経営についてこんなことを話していた。以下要約である。

「中国の経営で一番頭を痛めていること。それはね、出産管理が大変なこと。うちのように若者を沢山雇っているとね。何故かと言うと、中国では『18才未満で出産した場合は、会社の管理責任が追求され罰金が科せられる』という法律があるんです。だからこちらの対策としては、コンドームを配ることであったり、毎月の生理を点検するなど…。一人っ子政策ともからんでいろいろ大変です。」

中国社会では「性の国家管理」が公然と行われている。人口増加という問題を抱えている国だから、分からない訳ではない。だが…、とやっぱり思ってしまう。「性の国家管理」と言ったが、ストレートに表現すれば「性の抑圧」である。さらにトータルに言えば「女性への抑圧」である。当然、反作用として「男性への抑圧」も生まれる。女性の自立とか人権とかが議論されるのはいつのことだろうか、ということが気になった。

5. 中国の大学生は何と闘っているか?

28・29の二日で、私は瀋陽の街を一人で歩きまわった。北陵公園、故宮博物館どちらも見ごたえがあった。特に故宮博物館では、その日たまたまのことであるが、清朝皇帝に披露したであろうさまざまな舞踊ショーが行われていた。終わってから分かったことであるが、数百人の出演者は、プロではなく、公安?軍隊?であった。日本と違ってかなり身近な存在である。石井先生の部屋に来る学生に軍隊のことをすこし聞いた。だいたい以下のようである。

「軍隊は身近な存在です。中学校に入ると最初の1週間が軍事訓練の時間で軍隊が直接教えてくれるんです。大学になるともう少し本格的で1ヶ月間続きます。主に、歩行訓練、集団訓練、そして全員、銃を手にします。実弾での練習です。その時はさすがに緊張します。実践訓練では男女の区別はいっさいありません。それが終わると理論学習です。最後に成績が出ます。ただし生徒には公開されていませんが。」

夕ご飯を一緒に食べながらこういうことを明るく語ってくれる。「中国は国民自身が守らなければならない」という信念が根底にある。日本の大学生とは全然違う。要するに先の戦争の反省が、日本と中国では違うのである。中国は「忘れるな9・18」。ちなみにアメリカも良く似ていて「REMEMBER PEARLHARBOR」。ともに憎っくき敵は、日本もしくは日本軍国主義である。さて日本では、そんな言葉があるだろうか?あるとすれば、「繰り返しませぬ、過ちは」という広島平和公園の言葉ではないだろうか?しかしこの言葉では、この過ちを犯したのは誰か?ということが不明確である。原爆を落としたアメリカなのか?原因を引き起こした日本軍国主義なのか?それとも当時の日本国民なのか?すべてはあいまいなまま50年以上が過ぎている。そういうことを考えていた私は、ぜひ9・18事変博物館に入りたかった。が、同館は改築工事中であった。これについて一つだけ言っておくとすれば「中国養父母への感謝の碑」であろう。この20年間多くの残留孤児が日本に帰ってきた。言うまでもなくその人たちが今日あるのは、中国人の養父母のおかげである。その人たちへの感謝の気持ちをあらわしたものとして「中国養父母への感謝の碑」が、今回博物館に寄贈された。ぜひ直接見たかったが、敷地の工事現場をバックに写真をとっただけで帰るしかなかった。

学生たちは、今一つの闘いを語ってくれた。寮費値上げ反対運動である。遼寧大学の学生はほとんどが学生寮に入っている。その費用が昨年まで1年間200元(3000円)。それがこの新学期9月から500元(7500円)と突然発表された。が、そんなお金を払える学生はほとんどいない。「学生自治会」?は寮費不払い運動を呼びかけたようである。ある学生は、憤慨しながら次のように話していた。

「何も改善されていないのに、何故寮費を上げるんですか?全然理解できない。すくなくともネズミが出ないような寮にして欲しいわ。」この学生たちの闘いは、いつどんなふうに決着がつくのだろうか。

6. 「日中関係の将来は?」という学生の質問

最終日の8月30日午後、遼寧大学日本語クラスで「特別授業」である。その練習?に、午前中「遼寧省幹部のための日本語授業」で少し自己紹介をさせていただいた。するどい質問もあり、冷や汗ものであった。

いよいよ本番の日本語クラスである。ここでも自己紹介から入った。その後で、私への質問を聞いた。すぐに3つの質問が出た。

  1. 「日本の若者は、何故食べることと恋愛のことにしか関心がないのですか?」
    (日本で留学体験した生徒から)
  1. 「女性の立場が進歩しているようですが、少し教えて下さい。」
  2. 「あなたは日中関係の未来をどう考えていますか?」

 私にとっては、最初の二つの質問が答えやすかったのでそっちから入った。Bについては「難しくてすぐには思い付きません。そこで今流行っている曲、またはあなたたちが好きな曲を少し紹介して下さい。それを聞きながら少し私の考えをまとめますから。」とお願いした。中国の学生は真面目である。先生のお願い(実際には「命令」かも知れない)は必ず聞いてくれる。学校の先生を「尊敬」している。日本ではあまり感じれなくなった感覚である。この時も少し恥ずかしかったであろうが、4人の学生がしっかりと歌ってくれた。

結局Bの質問に対して、私はこんなふうに答えた。

「ヨーロッパEUの動きから何か学ぶことはできないか?これまでの国という単位を少し修正していく必要があるかもしれません。それ と『中国人養父母への残留孤児の感謝の碑』のような人間関係が大切ではないか?個人と個人の関係が国単位の関係を変えるかも。」

特別授業終了後、一人の生徒がわたしのところに来てこう言った。

「松川先生、これからもこのクラスに来て教えてくれませんか?だめですか?」

「本当は私も、そうしたいのです。でも私の学校の校長先生は頭が固くて許してくれません。あなたと江沢民さんで校長に手紙を書いてくれませんか?」 と、私はうれしそうに答えた。

「今はまだ江沢民さんと友達にはなっていない。だから少し時間がかかりそうです。」と、その生徒は笑いながら言ってくれた。

ジョークも理解する優秀な生徒たちである。

帰国してのこと

この遼寧大学での授業を石井先生がビデオに撮ってくれました。ダビングしたものを上神谷高校の中国帰国生に紹介すると、「一度、この大学へみんなで交流に行こう。」と、ある生徒が言いだした。いつの日か、ぜひ実現したいものである。



次の記事:中国あれこれC・「還珠格格」を継ぐのは