[ 投稿 ] ねばり強い中国人 この文章は、在中国のある合弁会社の閉鎖に至る顛末記です。筆者は昨年秋段階での日本側の代表で、合弁会社の董事長でした。できるだけ事実をもとにして書いたつもりですが、感情が交じる部分もあるかも知れません。中国で仕事をしている人、これからしようと考えている人たちに参考にしてもらえたらと思います。 前史 ◎会社設立の経緯、目的 会社は「在中国の日系企業に日本的なビジネスサービスを提供する」ことを目的として、1994年に設立された。出資者は日本側のオーナーが約70%、中国側のMさんが25%で、実質的には日本側オーナーの会社です。当時は、中国で仕事をしようとすればまだ不便なことも多く、「便利屋さん」として結構重宝された。このころは、日本人スタッフが2〜3名、中国人スタッフも同じくらい。当時の董事長・社長は、「コスモポリタン」を目指す開明的な人で、会社としての基本は、「同じ仕事をするなら日本人・中国人にかかわりなく同じ待遇」というのがモットーで、お金はないけれど皆で頑張って働くという会社でした。 ◎創業社長の死 数年前に、病気のために創業社長が亡くなられました。 ほとんど全ての人が、「先代社長の中国にかけた遺志を引き継ぎ、私はその実現のために頑張る。」と明言した。当時副社長をしていた日本人が総経理を引き受け、私は董事長を引き受けた。私の仕事は、1〜2ヶ月に1回中国に行き、中長期方針を皆と話し合って決め、全体の進行がうまくいっているかをチェックすることでした。 ◎総経理の反旗 民主的で自由な創業社長の下で、お金の出し入れや印章の管理は一人の中国人スタッフ(Zさん)に任せられ、この人が経理的な面で会社への忠誠心にあつい人だったので、経理面では総経理がZさんに管理される立場になった。総経理が新しい事業に取り組み、夜も日曜日も働いて、結果をZさんに報告すると、「会社の利益にならなかったから」と言って、経費の支払いを拒否されることもあった。私が行ったときに命令すれば言うことを聞くのですが、日常的には日本人総経理とZさん及び中国人副総経理のRさんとの関係で仕事が動いていて、「気の弱い日本人」では「まくしたてる中国人」との共同作業がしにくかったようです。 対立が積み重なる中で、結局日本人総経理の「堪忍袋の緒が切れて」、全員解雇、新会社への業務移行を試みた。董事長である私も知らないうちに事態は進行していたらしく、「クーデタ」の起こった後に中国に行ったのですが、すでに中国人のZさんとRさんによってクーデタは鎮圧され、日本人総経理が追い出される結果になっていた。 ◎総経理を引き受け この時点(1999年)で、日本側オーナー(創業社長の奥さん)は会社解散の方針を固めた。すでに資本金額を超える累損を計上しており、事業的には何の見返りもないのに、ゴタゴタがあるたびに中国へ行って責任を取らなければならず、こんなことは続けたくないというのがオーナーの言い分でした。 その方針で中国に行ったのですが、ZさんRさんの大反対で「会社解散」を撤回した。曰く「先代社長の死後、皆で一生懸命働いてきて、ようやく黒字が出るようになってきたのに、私たちの生活はどうなるのですか。」というのが言い分でした。中国側出資者のMさんにも相談したが、「会社解散を強行すると、彼らは対抗手段として裏金の存在を税務局に訴えることを匂わせた。」と言って反対した。 中国で「裏金」の存在しない会社はないと思うのですが、裏も表もZさん一人にやらせてきた会社としては、「それをばらすぞ」と言われて、自分たちの主張を強く言えなくなってしまったのです。 結局、うまくいかない場合は閉鎖することも含めて6ヶ月間やってみよう、6ヶ月後に再検討しようということで、総経理も引き受けてしまった。全てのお金の情報を一人に委ねるのは危険なので、この時点から裏金管理を別の人に移し、裏金をできるだけ縮小していくこと、印章の一部を非常勤のMさん管理に移行し、かつ総経理の私は日常的に不在なので、中国人副総経理のRさんに社内管理を委託しました。 ◎半年後 この半年間に会社は大幅な黒字を出しました。先代社長の死後、いろいろな工夫をして皆で営業活動に努めてきた成果が出てきたのです。「閉めようか」という時に「大幅黒字」ですから皮肉なものです。社内の状況も、強い中国人2人と優しい日本人2人の関係では、それほどの波風も立たず(常に日本人が負けて追い出されていったのだが)、「閉める」積極的理由もなくなってしまったので、「それなら積極的にやって、どんどん会社を発展させよう。」というのが方針になりました。 ◎董事長・社長の交代 外面的には会社もうまくいくようになり、奇特にも会社を引き受けてくれる人が現れて、私は全ての責任を譲りました。 しかし、新社長に対して、中国人社員はことごとく反発しました。会社が黒字というのは善し悪しで、がむしゃらに働かなくても食べるには困らないのです。会社方針として「積極的にやって、どんどん発展させよう」を打ち出して全員が認めているのに、新社長が具体的な営業目標を要求すると、「会社が儲かっているんだから、あくせくしなくてもいいだろう。」と言って会社要求を無視する。結果として、中国人社員は新社長の業務命令をほとんど無視し、董事長・総経理の登記さえも行わなかった。 会社がこのような状態になってくると経営状況も左前になるもので、黒字幅は急激に縮小していった。危機感を持った新社長は、「積極的な仕事を拒否する」社員との労働契約の条件変更を提案した。要するに契約期間の短縮である。その時、さっと私が社長の時代の労働契約を出してきて、新しい契約を断固として拒否した。その契約書は、私自身全然覚えのないもので、当然私のサインはなかったが、公章を押してあるので法的には完全に有効らしい。信頼して印章を預けてきた「裏目」第一弾。 次に、当該社員に対して、他社の総経理としての移籍を図ろうとした。最初は「行ってもいい」と言っていたが、「首切り」の面を実感したのか、断固拒否に変わった。 今年4月に副総経理のRさんは、集金した現金約2万元を「紛失」し、警察にも届け出ず、経理担当のZさんには言ったが、他の人には言わず、1ヶ月半後に社長に報告した。なぜすぐに報告しないのかという社長の問いに、「全額自分で弁償するつもりだったので報告しなかった。」と言った。 この間、他の日本人社員が校正ミスで約2000元の印刷し直しを発生させたとき、Rさんは「全額弁償せよ、すぐに社長に報告せよ、客の所へ行って謝って来い」と大声で叱りつけたそうだ。 社長は、Rさんに、1ヶ月半遅れの「紛失報告書」の不備な点を書き足すことと本人のサインをするように要求した。(単なるワープロ打ち文書だから誰でも作れるので。)彼はこのサインを断固として拒否した。 こんなことをしていたら、社内の関係はとげとげしいものになるし、お客さんにも伝わり、仕事もがた減りになっていき、日本側オーナーは「会社閉鎖」を決意し、再び私にその会社閉鎖の任務が回ってきた。 (以下次号) |