特急<あじあ>の牽引機「パシナ」発見と復元のドラマ
“幻の巨人”はこうして甦った

               竹島 紀元((株)鉄道ジャーナル社社長)


その1 流線形に復元して

  蘇家屯機関区で展示保存

 8月7日(1980年)の夜9時、私たちが現地で撮影した映画フィルムを使って、「日本の鉄道愛好者が中国東北部で<あじあ>の機関車を発見!」のニュースがNHKから流れると大きな反響をよび、全国から問合せの電話や手紙があいついだ。旧満鉄関係者や旧満州在住者が多く、ほとんどの人がパシナを日本で保存することを熱い心情で願っていた。

 大々的に取り上げた新聞の中には一部に批判的な意見も散見された。過去の中国侵略の亡霊への郷愁は日中友好に水を差すだけだ、というのである。

 だが、そうであろうか――?

 特急<あじあ>が満鉄のシンボルとして結果的に日本の中国侵略の一端を担うことになったのは否定できないとしても、牽引機パシナ形を含めて、ほんらいは日本の鉄道技術者たちが優れた技術を駆使し大きな夢をもって創り上げ、東洋一の驚くべきスピードで走らせた、鉄道技術の“粋”である。“世界の新幹線”へとつながる技術の過程の偉大な産物であり、科学に国境がない以上、人類共通の遺産として正しく評価し後世に伝える努力をしてゆくべきだろう。また、私たちが奇跡的に再開する直前までの解放後1/3世紀の長い歳月、中国の多くの鉄道労働者が老いたパシナを大切に整備し、輸送の第一線で走らせてきた点も一考に値しよう。

 私たちが熱意をもって中国国鉄に要望すれば、現地で保存してもらうことも不可能ではないであろう。しかし<あじあ>の過去と、近代化の推進に懸命な中国の国内事情、その動脈として輸送力増強に専念している鉄道の状況を考えると強く希望もできず、また完全な保存も期待できない。流線形時代のオリジナルな姿に復元して保存することに、つまりパシナを鉄道文化財として後世に残す意義があるならば、たとえ多くの困難に出合うとしても日本で保存するのが最良の方法ではないのだろうか…。

 希望と激励の世論をバックにパシナの保存運動は急進展するかにみえたが、思わぬ蹉跌が生じた。大々的なマスコミ報道もあって熾烈な「パシナ争奪戦」が展開され、保存問題はにわかに生臭い様相を呈してきたのである。企業宣伝の目玉にするため巨額のカネを積んでの入手競争が繰り広げられ、政界の大物や黒幕をバックにしての強引な購入交渉のケースも現れた。

 こうした商魂たくましい「パシナ騒動」は、良識ある人たちを嘆かせたが、同時に中国側を困惑させ、硬化させた。保存運動をやめてほしいという強い要請があり、パシナの日本への譲渡も白紙に戻された。 日本での保存をあきらめた私たちは、次善の策として中国でのパシナの保存展示を、中国国鉄に強く訴えつづけた。そして同時に、もし技術的に可能なら走行可能な状態にまで修繕整備して、近い将来、中国とその鉄道に深い愛情と関心をもつ日本の人たちを乗せて東北の大平原を走らせ、その車内で中国鉄道労働者と心からの交流を図りたいという壮大な夢も提案した。

 こうした要望についての具体的な回答は得られなかったが、このころすでに中国ではパシナの復元計画が着々と進んでいた。1970年前後に務めを終えて各地の機関区構内で据付けボイラーとして余生を送っていた3両のパシナ形を蘇家屯機関区に集め、最も状態のよいSL751号機を選び、不足した部品は私たちが対面したSL753を含むほかの3両から転用して、一両の完全な“流線形パシナ”を復活させようというのである。

 1981年5月、SL751号機はむかし懐かしい堂々たる流線形の雄姿を蘇家屯機関区の構内に現わした。廃材を集め、機関区労働者たちが仕事の合間にコツコツと汲み上げた車体の流線形カバーには凹凸が目立ち、とりあえず外観だけの修復で走行不能の状態ではあったが、黒光りした堂々たる巨体は今にも煙を吐いて力強く走り出しそうに見えた。

 1981年7月、私は第2次「鉄道友好訪中団」の団長として一年ぶりに蘇家屯機関区を訪れ、黒い車体に白線を入れ、足(動輪)は真っ赤という中国SL標準塗色のパシナ(SL751)と対面した。この団には満鉄時代最後の大連機関区長だった上田四郎さんと同区の機関士としてパシナ乗務体験をもつ戸島健太郎さんが参加していたが、三十余年前の戦争中の不幸な思いでを洗い流して中国鉄道労働者と旧国鉄マンがしっかりと手を握り合ったのち、戸島さんがパシナの運転台で“模擬運転”を披露、見守る日中両国民の間から盛大な拍手が起きた。

 もちろん静止の状態であったが、それらはパシナにふたたび生命を甦らせるための厳粛な儀式のように思えた。


 いちおう往年の雄姿を再現したパシナは蘇家屯機関区の構内に静態保存され、東北部最大の都市−瀋陽の名物として、大勢の日本人観光客が訪れるようになった。

 この間、民間レベルでの日中両国の鉄道交流を目的とした「日中鉄道交流協会」が1982年の秋に発足、中国国鉄と実務面での太いパイプがつながり、パシナ復活運動はこのルートを通して強力に推進されることになる。

 なお、この段階になると「パシナ」復活運動の原点となった特急<あじあ>の歴史的な位置づけの問題も浮上してきたが、中国側でまだ必ずしも払拭されていない<あじあ>の暗いイメージを避ける意味もあって、すべてを「パシナ」の名前で呼ぶことが、日本と中国で自然に定着した。

 
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